映画監督のページ  桂 荘三郎 総監督

桂 荘三郎 監督の代表的作品

「伊藤千代子の生涯」映画化の今日的意義について
 映画「伊藤千代子の生涯」総監督 桂 壮三郎 氏

 映画の誕生と戦前の治安維持法と映画法の時代

 1893(明治26年)アメリカのシカゴで万国博覧会が開かれた。その中に、発明王トマス・エジソンが出品した人の高さほどの長方形の箱が人気の的となっていた。 その箱の覗き穴からのぞくと人間や風景がまるで生きている様に動いているではないか、発明王エジソンは動く現実を記録し再現するという人類の夢を実現させたのです。

 それから2年後の1895(明治28)年12月28日、フランスのパリでリュミエール兄弟の「シネマトグラフ」が初めて映画として公開されました。 会場の前方に張られた大きな白い布(スクーリン)に動く写真(映像)が映し出されたのです。スクーリンに動く写真(映像)を多くの人に同時に見せる在り方は、 今日の映画と同じ条件をそなえていたのです。その意味において、この日が映画の誕生と言われています。

 この「シネマトグラフ」が日本で初公開されたのは、1897(明治30)年2月大阪の南地演舞場と言われています。 伊藤千代子が長野県諏訪市で生まれたのは映画の誕生から10年後の1905年です。当然、千代子達も小学生から高等女学校の時代に活動写真を見ているはずです。 この当時は未だ無声(サイレント)映画の時代で弁士が活躍していた時です。

 大日本帝国憲法下に於ける国の映画についての検閲は1912(大正元)年ころから警察が事前に見て上映を禁止したり、フィルムをカットする形で検閲が全国各地で始まりました。 治安維持法が出来た1925年に映画検閲を内務省の警保局が担当します。

 その後、「映画法施行規則」ができ、シナリオの段階での事前検閲を行い、出来上がった映画を見てまたカットするなど滅茶苦茶なことをやりました。 「規則」を見ますと「1、皇室の尊厳を冒涜し又は帝国の威信を損なう恐れのあるもの」「2、政治・軍事・外交・経済上帝国の利益を害するおそれがあるもの」等々、 大日本帝国憲法から治安維持法に至る時代の映画検閲の徹底の流れがみて取れます。

 治安維持法の凶暴さを描いた劇映画を見る

 日本プロレタリア映画同盟出身のプロデューサー松崎啓次が企画し、シナリオに久坂栄二郎、監督に黒沢明、黒沢の戦後第一作「わが青春に悔いなし」が1946年に公開されました。 京都帝国大学で学問の自由が弾圧された「滝川事件」と「ゾルゲ事件」を素材に、新しいオリジナル脚本によって作られました。

 1928年第一回総選挙に労働農民党から立候補し当選した政治家山本宣治は治安維持法に強く反対し 1929(昭和4)年3月5日右翼の青年に暗殺された、 その山本宣治の生涯を描いた「武器なき闘い」が1960年に山本薩夫監督によって映画化されました。 山本薩夫監督は、1950年代からの独立プロの旗手として、社会性と娯楽性を巧みに組み合わせた骨太の作品を多く発表した監督です。

 1974年今井正監督は、プロレタリア作家小林多喜二の愛と青春を描いた、映画「小林多喜二」を完成させました。1925年に治安維持法が制定され、 革命的プロレタリア文学運動と呼応した小林多喜二は「1928年3月15日」「蟹工船」を発表しました。
 しかし、その革命的文学は官憲の憎むところとなり1933年特高に捕まり、その日のうちに拷問によって虐殺された。 映画はプロレタリア文学の先駆者である多喜二の果敢な戦いと人間多喜二の苦悩を見事に描いており、本作は自主上映運動によって全国に広まりました。 多喜二に山本圭、その恋人田口タキに中野良子が扮し後世に残る名作となっています。

 1940(昭和40)年の東京を舞台に、父親(家族は父《とう》べい)と呼んでいた、その父(とう)ベい、が反戦思想を持っていたことで治安維持法の思想犯として投獄される、 残された母(かあ)べい、と家族は父(とう)べいの無実を信じ支え合って生きていく姿を山田洋二監督は、 戦前の時代状況を克明に描き感動的な作品となりました。母べい、を吉永小百合が演じ 戦争への怒りを内に秘めた母べいの演技が高く評価されました。2008年松竹作品です。

 映画「伊藤千代子の生涯」の製作の今日的の意義を明確にする

 さて、今回、私たち映画製作プロジェクトは「伊藤千代子の生涯」を映画化するにおいて、 上記にあげた過去の名作に引けを取らないそれ以上の作品を作る決意と抱負を企画の段階で確認致しました。

 戦争反対などが「国賊」「非国民」と扱いされた絶対的天皇専制時代、帝国主義侵略戦争に反対し、主権在民、 社会的平等を願って24歳の若さで繁れた伊藤千代子の苦難と希望とこころざしを格調高く描く映画化の実現です。

 1920年代(昭和初期)の日本は絶対的天皇制政治のもとで国民は天皇の臣民(天皇の家来)とされ、貧困と無権利の状態に置かれました。 そして、天皇制軍隊ファッシスト政府は中国への侵略を開始しました。同時に絶対的天皇制政府は1925年に悪法治安維持法を成立させ、 共産党、社会主義者、労働組合・農民組合、宗教団体等を思想犯罪者として逮捕し拷問を加え弾圧したのです。

 小説「一九二八年三月一五日」「蟹工船」を発表した小林多喜二は特高警察に逮捕され拷問によって虐殺されました。 無数の活動家も治安維持法で命をおとしました。伊藤千代子もそうした活動家の一人でした。

 1925年東京女子大英語専攻部に入学した千代子は大学内の社会科学研究会結成に参加し科学的社会主義の理論を学んで自分のものとしていきます。
 社会変革の実践活動の中で鍛えられ社会変革運動に確信を深め千代子が願った社会は、平和で社会的平等が保障され国民の苦しみが解放される社会の実現でした。

 治安維持法が猛威を奮っている時代に日本共産党への入党は犯罪と敵視されるなかで千代子は入党を決意したのです。 しかし、絶対的天皇専制政府は、そんな千代子の思想を許す事はなく、1928年3月15日の一斉弾圧で千代子は特高に逮捕され市ヶ谷刑務所に勾留され拷問をうけます。 しかし、千代子は正しい事を信じ拷問にも堪え獄中での学習を続けます。又、千代子は治安維持法で逮捕され刑務所に勾留された同志達を独房から励ますのでした。

 しかし、そんな千代子に最愛の夫の変節が知らされるなど権力の圧力は容赦なく千代子に襲い掛かります。 それでも頑強に戦い抜く千代子も劣悪な独房のなかで次第に体力を失い、精神的病状に陥り精神科病院に移送されます。

そして1929年病院から放置された千代子は誰に看取られることもなく24歳の若さでその生涯を閉じました。 人民弾圧を目的に作られた治安維持法の犠牲者である伊藤千代子の闘いの記録は「暗闇から一筋の光を射すような輝かしい生涯でした。」
  アララギ歌人土屋文明はかっての教え子であった伊藤千代子の非業の死を偲び

 こころざしつつたふれし少女よ
  新しき光の中に置きて思はむ

 と詠みました。私達映画人は21世紀の現代に蘇る伊藤千代子の熱き生涯を描いた感動の映画をめざします。

 作品製作の意図
  1. 伊藤千代子を知らない人、とくに若者へ、伊藤千代子の生きた時代を理解し千代子の生き方への共感を得る作品とする。
  2. いい映画(文化)は人間の生き方に影響を与える力がある。それを認識し全力で映画製作を進める。
  3. 文化的、芸術的価値のある表現力の優れた作品とする同時に、本映画を通して民主的映画運動の基盤を強化する。
  4. あらゆる人が鑑賞できる全国公開の場を設ける。 上映運動の強化を図る。
  5. 本映画の製作・上映運動を通し民主的で活力ある社会作りに貢献する。
  6. 海外の映画祭等への出品を計り、海外での公開を推進する。
  7. 本映画の製作活動を通じて参加する若手映画人の技能・技術を高める。
 戦前回帰を画策する安倍政権

  日本国憲法とりわけ憲法9条を守り、安倍政権が進める「憲法改悪」「海外で戦争する国づくり」を許さないたたかいが大きな国民的運動となっています。
 しかし、戦前の日本では、戦争に反対の声をあげた者への徹底的な弾圧が強行され、多くの人民が国家権力に よって殺害されてきました。
 映画「伊藤千代子の生涯」では戦争推進の弾圧装置である治安維持法にも一歩踏み込んだ作品に作り上げようと考えております。

 映画製作の困難さを克服する製作支援運動を呼びかけます

 最後に、全国へ製作支援の呼びかけをさせて頂きたいと思います。
 ご存知のように、映画製作にはスタッフやキャストの人件費から撮影機材・音楽・編集作業等々多大な製作資金を必要とします。
  特に、今回の映画「伊藤千代子の生涯」は、大正末期から昭和初期の物語であることで当時の建築物の美術関係から、 又、出演者のメイクから衣装の全を準備しなくてはならない作品です。
 スタジオに当時のセットを作る事もありますが、 少しでも製作費の軽減のために、多くの場面は当時の雰囲気が残っている地域や場所をロケハンし、 その場所に加工と飾りつけを施し撮影を敢行する予定で考えております。

 今回、製作資金を確保する手段として、 映画の完成後の上映に於いて、1回の上映(鑑賞者200名迄)を保障する「上映債権」を普及・販売する事に致しました。
  全国で800口を目標に「上映債権」の普及販売を成し遂げ製作資金を確保したいと考えております。 確実に作品を完成させる為に、暖かいご支援をお願い申し上げる次第です。
           (かつら そうざぶろう・映画監督)

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