民衆の幸せ、反戦・平和めざしジェンダー平等と社会変革に捧げた青春
志なかばで治安維持法弾圧に斃れた 伊藤千代子-24年の生涯
信州諏訪で生まれる
小学校卒業の日の伊藤千代子(左)平林たい子(右)
1905(明治38)年7月21日 諏訪湖の南側の湖南村に母・岩波まさよ、父・赤沼義男の長女として生まれました。
幼少時に両親と死・離別でその顔も知らない逆境に育ちます。小学校時代に平林たい子(タイ・のちにプロレタリア作家)と出会い競い合って勉学し、島崎藤村作品に親しむおませさんでした。
勉強したいのです!
-「女が勉強してなんにならず」おしのけて諏訪高女へあがる-
諏訪高女卒業写真。左上・千代子、右下・たい子、右上・土屋文明
土屋文明が赴任してきた。
入学時主席は平林タイ(子)、困り者タイ 控えめな千代子。目立たない存在。
しかし赴任してきた文明(アララギ歌人)は諏訪高女を「花嫁修業学校」から脱却させ、「学校は人格形成の場。教育に男女の差があってはならない、流行には後れろ、学科では負けるな!」と激励。千代子胸いっぱいに受け止めていく。
文明の注目惹く千代子さ。
卒業時、千代子が生徒代表で「卒業証書」を授与。
児童と弁当を分け合って-代用教員時代
代用教員時代の千代子 卒業後、千代子は、次なる飛躍-ある小さなもくろみ胸に隣接の高島小学校の代用教員に。1年生をうけもちます。
教室には、凶作や繭の暴落で昼食持参出来ない児童が続出。弁当を分け合って食べるために千代子は職員室へ殆ど戻らなかったという。貧窮の生徒たちを励ますために。
こんな酷いことがあるか-千代子は、初めて社会矛盾と真正面から向き合う。
一年後回想する。先生たちは島崎藤村の読みかたは教えてくれたが、この社会矛盾をどうしたら解決できるかは教えてくれなかった、と。
この時期に千代子は、恩師・川上茂の変心により恋愛に終止符を打つ。
「動きの時代が来ている…」-「或る小さなもくろみ」胸に、仙台へ
諏訪高女時代、西欧の文豪たちの小説を読み、もっと広く世界を知りたい!そのために「英語の勉強をしたい」と胸に秘めます。
東京英学塾(津田梅子創設)受験(関東大震災の年)するも、春・秋2回失敗。そこで、代用教員でためた資金で仙台・尚絅(しょうけい)女学校に進学。キリスト教立で外国人教師による授業で英語力をつける。
学内には、諏訪にはなかった個人尊重、自由と民主主義、男女平等の思想があふれ、千代子は敏感に、それを胸いっぱいに吸い込む。
学生社会科学連合会が結成され仙台2高や東北大学生らの新思潮の働きかけに接し、千代子「動きの時代が来ている。どちらかの方向に動かなければならない」と書き送る。
優秀な成績を収める。そして念願の東京女子大の英語専攻部に挑んでいく。東京女高師にも。
東京女子大へ入学 -羽ばたく千代子-
東京女子大学東寮 わが国初の女子大社研の誕生 東京女子大もキリスト教立の女子高等専門学校。英語専攻部のほかに、社会学部も置かれ、少壮の社会科学系講師陣が多数教鞭をとっていた。クリスチャンだけでなく、平等に教育が受けられ、学内には、個人主義、民主主義、男女平等の思想があふれていた。
千代子は、ここで寄宿舎(全員個室)に入り、学習をすすめた。学校の図書館には、これまで接した事のない社会科学書やプロレタリア文学書などが揃えられていて、千代子はむさぼるように学習を進めていった。
こうして入学の年(1925-大正14年、20歳)学内の社会科学研究会の結成に参画、数人の「社会科学研究会」が呱々の声を挙げた。
伊藤千代子が読んだベーベルの『婦人論』 『婦人論』を読む 郷里への手紙には、『女工哀史』などを読んだ感想が書き送られます。
そして、この年の12月、千代子はベーペルの『婦人論』を読んで「女の人が覚める時、男子の催眠術から、そして自己に対する催眠術から覚める時、
どんなにすばらしい世の中が展かれて来るでしょう」と書くところまで到達するのです。
男女平等、女性の自立、社会的・文化的に作られた性差への抗議、今日でいう「ジェンダー平等」思想へのとばくちまで到達していたことが伺われます。
社研の組織化へ やがて千代子らは、学内の社研サークルの組織化に入っていく。寄宿舎の個室(3畳敷)が学習会の会場。
読むのは、『共産党宣言』『空想から科学へ』「共産主義ABC」など。原本を借りてきて、みんなで書き写すテキストもありました。
数人から出発したサークルは、やがて枝分かれして数十人にまで増大。その中心の一人が千代子であった。人望と、理論力、組織力で抜群の力を発揮した。
時には、芝生を折り敷いて野外での学習会にまで発展させました。
伊藤千代子在学当時の東京女子大学東寮個室 「ロウ勉」の跡 消灯は9時。舎監の点検後ローソクの灯りで社会科学書を学習していました。
後輩の塩沢富美子(のち野呂榮太郎夫人)は、千代子の居室机の引き出しに山なりのローソクの燃え垂れを発見するのです。
千代子等の刻苦の努力が偲ばれるものです。
マルクス主義学習会・女子学連 やがて千代子は学外に出てマルクス主義学習会に参加、高いレベルの学習につとめます。
ここにはチューターとして東大新人会の浅野晃が参加していました。
さらには、全国の女子専門学校の社研の組織化と横断的組織化(女子学連)づくりに奔走し始めます。
今日得られる特高警察の探索の「組織図」では、東京女子大、日本女子大が双壁で、ついで尚絅女学校、東京女高師など、
その大半が伊藤千代とのつながりが伺われるメンバーが占めていることから、彼女の全国オルグが進展していたとみられます。
民衆の幸福のために-1927年夏-
「ああ野麦峠」を超えて 在学3年目の夏休み、帰省中の8月未、郷里諏訪の「山一林組」の(映画・「ああ野麦峠」の舞台) 紡績女工が待遇改善をかかげてたたかいに起ち上がります。
千代子は、紡績労働者に資本の搾取の仕組みを伝えつつたたかいを励まします。
この時、千代子は、労働者が団結して闘う姿を見て、自分たちがこれまで学んできた階級闘争の理論の実践が眼前に展開していることを実感するのです。
争議は、階級的労働組合の評議会の支援を受け入れず、戦術の失敗もあり、資本家団体の総攻撃の前に破れました。
千代子は、民衆と労働者の幸福のために、自らも闘いの実践に加わっていくことを決意するのです。
諏訪湖畔でのプロポーズ この時、千代子は、労農党の活動で諏訪入りしていた東大新人会の浅野晃(あきら)と再会します。
浅野は、諏訪湖畔で千代子にプロポーズし、千代子は胸熱く受け止め、自らの意思で結婚を約束したのです。そして夫婦別姓のままで活動しました。
千代子は、活動と結婚生活を両立させるため、東女の寄宿舎を出て浅野晃との生活をはじめました。社研の指導の時だけ学内に戻るという生活でした。
嵐の中ヘー1 第1回普選
国民の闘いと要求により政府は男子普通選挙の実施に踏み切りました。しかし、女性には選挙権も被選挙権もないままでした。
この時千代子は、労農党本部につめて浅野の任務の補佐と選挙戦を精いっぱい闘いました。とくに郷里の藤森成吉候補(プロレタリア作家)の応援に力を入れました。
この時、共産党は治安維持法によって非合法化されていました。そこで労農党と共同戦線を組んで40人の候補者中、
11人を立候補させて闘いました。結成されたばかりの労農党は選挙資金不足に苦慮していました。
とりわけ東京から小樽・札幌の選挙区で立候補する山本懸蔵は病気と資金不足のため出立できないでいました。
浅野はその資金調達に苦慮していた矢先、千代子に郷里からの学費が届いた。浅野の懇請に、千代子はある決断をしました。
労働者・国民が初めて手にした普通選挙という革新の大義のために自らの学資を拠出しようと涙の中で決断するのです。
こうして小樽の多喜二らのもとへ山懸が出立していくことかできたのです。
小林多喜二の体験記『東倶知安行』に結実していったのです。
この選挙戦で労農党は京都で2議席を獲得し、山本宣治らを労働者・国民の代表として国会に送り出したのです。こうして山宣の獅子奮迅の活動が開始されたのです。
闘いのあるところに山宣の姿がありました。とりわけ治安維持法下の弾圧の実態をバクロし、犠牲者救援活動に全力をあげていくのです。
→関心のある方は「東京山宣会」ホームページをご覧ください。
嵐の中ヘ-2 初めての女性共産党員の誕生
入党 こうした活動に確信をもった伊藤千代子は、総選挙直後の2月29日、
共産党中央事務局長の水野成夫のすすめを「光栄です」と述べて率先して入党しました。
共産党は、「27年テーゼ」により、組織拡大に着手、ここにわが国の革命運動の黎明期に、初めて女性の共産党員が生まれたのです。
この時期の女性共産党員は、若干の時期の前後があってもみな「女性党員第1号」と云えましょう。
「3月15日朝」入党した千代子はただちに中央事務局(今日の中央委員会)に所属し、
幹部との連絡、重要文書の管理、印刷物の原紙ガリ切りなど、重要な任務につきました。
2月の普選の時、共産党は公然と国民の前に姿を現し、全国でビラまきや宣伝を開始しました。
支配層は、無産政党の進出、とりわけ息の根を止めたと思っていた共産党の出現に驚愕し、弾圧の機会を狙っていました。
それが「3・15事件」と呼ばれる大弾圧事件です。全国で1600人余の共産党員と支持者を検挙し、その内、起訴者は400人にも及びました(1928年全体では3426人、起訴者は525人)。
この日の朝、千代子は、前日から徹夜で党の重要文書のガリ切り原紙等をもち、滝野川・西ヶ原方面にあった党の印刷所に出かけていきました。
その場所は、早朝に特高警察か弾圧のために占拠し張り込んでいました。千代子は玄関先で異変に気付き、とっさにその場を離れ疾走しました。 そして格闘の未逮捕されました。
連行の途上、袂の中の重要書類の一部を自由の効く片手でチギリ捨て、 残った文書は警察署で「生理」と偽ってトイレに破棄するという大胆な行動に出ました。
拷 問 入党したばかりの千代子は「検挙予定リスト」にはありませんでした。しかし、当日は共産党の機関紙(赤旗・せっき)第4号の発行日でした。
その早朝、印刷所に現れた女性でもあり、 取調べは、髪の毛をもって引き倒す、エンピツを指の間に挟んでねじ回す、などのはげしい拷問が繰り返されましたが、 千代子は頑強に抵抗、口を割りませんでした。
地しばりの花のように-市谷刑務所
獄中で学習開始 こうして千代子は、市谷刑務所女区のクモの巣の張る病人独房に留置され、 拷問で痛めつけられ10日間も起き上がることが出来ませんでした。
しかし間もなく傷ついた体を癒し、『資本論』学習を開始し、獄中の同志たちとの連絡を取り始めました。
獄中のリーダー 千代子の独房は、女区入口通路に面していました。思想犯はお互い連絡取れないように、両隣に一般犯を収容していました。
この隔房を越えて、さまざまの工夫がこらされた連絡網が、千代子を中心に組み立てられていきました。つぶやきあり、 看守の隙をついて窓ごしの会話、運動場の庭に最初は棒切れなどで文字が、やがて、チリ紙に書かれた紙片が、
最後には、協力者の女囚が配る味噌汁椀の裏に連絡文書が貼りつけられて回されるまでになりました。
こうして同志たちはお互いが励まし合い、連絡を取り合いました。そのキーマンが千代子でした。
千代子は、誰それには1回も面会が無い、差し入れが無い、などの連絡を定期的に面会に来る浅野の母ステさんなどを通じて獄外に連絡していました。
病気の同志への手当ても要求し、大胆できめ細かい千代子の連絡網が獄中の同志たちの団結に役立ちました。
千代子は、郷里の又従姉妹の平林せんの入党成長に力を尽くしました。その平林せんが、新潟で「赤色信越」を発行し、
同じく3・15事件で検挙され、誰も面会に来ないなどの情報に接し、獄外に救援を依頼し、母親たちが駆けつけました。
そして、5月1日メーデー、3日マルクスデー、11月7日革命記念日、そして1月15日ローザ・ルクセンブルグ記念日などに一斉に労働歌を歌うなどの獄内いっせい行動もとられました。
『女子党員獄中記』 3・15事件で共に捕らわれた新潟出身の原菊枝さんは、千代子と励まし合い、
獄外に出た後、千代子等の獄中生活を『女子党員獄中記』にまとめて出版しました。
思想検事とのたたかい 千代子の取調べは思想検事が訊問し「調書」を作ります。その第2回目の尋問調書が残されています。
ここで千代子は、治安維持法処罰の対象であることを知りながら、堂々と党員であることを名乗り、自分の思想成長と共産党が何を目指す政党であるかを述べます。
その理路整然たる論建ては、千代子の理論水準の高さと確信の拠ってきたるものを明確に示しています。
そして、資本主義の限界を乗りこえて働くものの社会が必ず来るとの確信を披歴して、屈服を拒み続けたのです。
自らの困難をおいて友人・同志たちへの思いやりとリーダーシップの発揮、屈服迫る権力側の攻撃に耐えて転向せず初心を貫き通しました。
この冊子で全文紹介されています
千代子は、獄中から浅野の妹に向けた手紙で、踏まれても踏まれても根を張り、 塀によじ登って花を咲かせる「地しばりの花」にたとえて再起を目指していることを伝えています。
苦悩に灼かれて --転向攻撃のなかで
転向攻撃の動き この間、病気などの女性は保釈が認められ獄外に出ました。ところが、千代子は、さまざまの病変がありながら、
保釈願いは受理されませんでした。指導的立場の、転向を表明しない千代子等は決して保釈しなかったのです。
1929年5月頃、共産党中央事務局長の水野成夫が同じ市谷刑務所のなかで、平田検事の誘いにのり「絶対主義的天皇制」を認めるという変節を行いました。
戦前においては、わが国の支配の根幹である天皇絶対の専制支配を廃止してはじめて次の社会体制に移行することができるというのが、革命理論の到達点でした。
日本共産党の中心的命題でした。
しかも水野は、「絶対主義的天皇制の下での社会主義革命」が可能とまで主張するのです。 さらに共産党は解体して出なおす必要があると解党主義の主張までしました。
治安維持法は「国体の変革」を主張し、結社し、加入する者を処罰するもので、さらに改悪して「死刑罪」となりました。
水野らは、最高指導部にいて、これから逃れようと革命の基本命題を下ろしてしまう行動に出たのです。
平田検事は、不法にも、この「意見書」を刑務所内の共産党員らに配布し、転向を誘い出す手段に出ました。男子房中心に動揺が起こり、拡大していきました。
千代子の夫の浅野もこれに同調するようになりました。女子房では千代子を先頭にこの動きに反対します。残されたのは千代子等わずかでした。千代子は夫の転向を許せませんでした。
再起めざしつつ こうした中で、最後まで頑張る千代子への攻撃が強まります。
検事側は、伊藤千代子を浅野などの裁判法廷まで傍聴させるなど、あらゆる手練手管でリーダーの千代子を転向に誘い込む策動を強めてきました。
こうした中で、千代子は同じ獄中にいた夫の変節と男性陣の多くが転向する事態に直面し、日本の革命運動の弱点はどこにあったのかを真剣に悩みながら、懊悩が続きました。
7月下旬、それが最高潮に達しました。独房の中で懊悩・錯乱する千代子を誰も救う術がなかったのです。
刑務所側は、千代子が錯乱を発症しても勾留をつづけ、保釈もせず、入院もさせず、被告の座から外すこともしなかったのです。
こうして、どうにも手に負えなくなった刑務所側は「執行停止」のまま特高監視の松澤病院に収容しました。
千代子はそこで懸命に立ち直りつつありました。その過程で肺炎を併発、誰にも看取られることなく24歳の短い生涯を閉じました。 1929年9月24日未明でした。
(上)土屋文明・1960年頃
(下)土屋文明直筆。
こころざしつつたふれし少女よ 伊藤千代子は日本における黎明期革命運動に登場した最初の女性党員の一人です。男性中心の組織にあって、初めて科学的社会主義に導かれた女性が革命運動を担ったのです。
平和憲法のいしずえ アララギ歌人・土屋文明はファシズムの進行の昭和10年、教え子を権力に奪われた憤りと心痛を
「こころざしつつふれし少女よ 新しき光の中におきておもはむ」
と詠いあげました。
千代子等のこころざしたもの、その崇高なたたかいが戦後の日本国憲法のいしずえになったのです。
劇映画は、この史実と千代子の生きざまを感動的に描きだし、若者たちの共鳴のうねりと時代閉塞の今日を撃つ力にしていくでしょう。
土屋文明直筆は、伊藤千代子の後輩の塩沢富子さんに贈られた(日本共産党中央委員会党史資料室蔵)