伊藤千代子―いま、新しき光の中へ
研究論考-1 藤田 廣登

ベーベル『婦人論』に学び、ジェンダー平等へ接近する千代子
   ―新資料の発掘①―映画化への視点―    

 伊藤千代子の先行研究の成果を引き継いだ拙著『時代の証言者 伊藤千代子』(以下、拙著)は、2005年7月発行以来版を重ね、 この間、新資料発掘を加えながら「増補改訂版」の形で発行を持続してきました。本稿は、その後得られた「新」資料と知見を紹介しつつ、 2021年春クランクインを予定する映画化の意義を考えるものです。
Ⅰ 『婦人論』を読む千代子
  ―ジェンダー平等の視点からの考察

 拙著の特徴の一つは、先行研究にはなかった少女期から東京女子大時代までの「千代子の手紙」の紹介と解明でした。 2000年に入って、千代子が諏訪の小学校時代の「心の友」の級友・五味(のち葛城姓)よ志子さんに交わした48通の手紙が、 二女の葛城誉子さんによって公開されました。そのみずみずしい感性あふれる手紙によって、多感な千代子が、社会矛盾に向き合い、 人道主義から新しい社会思潮へと目覚めていく過程が明らかになりました。

 その内容は、彼女が自らに課した英語の勉強という「小さなもくろみ」から、社会変革という「大きなもくろみ」へと転換していった軌跡をよく示すものでした。 その最後の手紙は、ベーベルの『婦人論』を読んで男性に隷属しない女性の自立、男女平等の実現に向けて歩を進めていくものでした。

 今般、拙著を原案にして映画化へのスタートが切られたのを機に、拙著では展開しきれなかったこの手紙の部分を再考し紹介していきます。

 伊藤千代子は、1925年、仙台・尚絅(しょうけい)女学校を経て東京女子大英語専攻部への編入学を果たし、 自由平等、民主主義志向のあふれる学内の空気を胸一杯吸って新しい学生生活を出発させました。その年の12月19日付の5枚にわたる エンピツ書きの手紙(資料①)で細井和喜蔵の『女工哀史』、『工場』を読んでの感想と同時に、ベーベル(資料②)の『婦人論』を読んで、「女の人が覚める時,深い深い眠りから、男子の催眠術から、そして、まず自己の自己に対する催眠術から覚める時、どんなに素晴らしい世の中が展(ひら)かれてくるで しょう」
 と書いています。

 千代子の在学当時、東京女子大には、社会学部を中心に 多くの少壮の社会学者が教鞭をとっていて、その一人に河 崎なつ(1889-1966、戦後、日本母親大会実行委 員会委員長)がいます。河崎は、1918(大正7)年3 月から 29 (昭和4)年3月までの期間在任していて(東京 女子大図書館調べ)、卒業生の記述によると『婦人論』を 講義していたことが知られています。千代子も社会学部研 究会に参加していたことから聴講していたとみられます。  わが国での本格的な『婦人論』の完訳は、「改造文庫」 で山川菊栄の翻訳(初版1928年4月)になるものと思 われます。『ベーベルと婦人論』の著書のある倉田稔(小 樽商科大学名誉教授)によれば、当時の訳書で考えられる のは、ベーベルの『婦人の過去・現在・未来』(1924 年刊、山川菊栄訳)であろうとのことです。

 伊藤千代子のこのような到達は、どのようにして導きだされたでしょうか。そしてその「結論」は、その後の彼女の活動の中にどのように生かされていったでしょうか。

 それは第一に、彼女のライフヒストリーの中でどのように形成されてきたのでしょうか。
 中洲村尋常高等小学校を揃って卒業した伊藤千代子、平林たい子が村内から一時間以上もかかる諏訪高等女学校へ進学したことは、当時、「女が勉強してなんにならずか」というような風潮の中で画期的だったのです。
 こうして、進学した諏訪高女に土屋文明が赴任して、″教育に男女の差があってはならない、学校は花嫁修業の場ではなく、人間を育成する教育の場である〟という教育実践をもっとも忠実に受けとめたひとりが千代子であったと言えるでしょう。

 そして卒業後の2年間、隣接の高島小学校での代用教員時代、貧しい児童と弁当を分け合って励ますヒューマニスト・千代子に成長します。
 同時にこの間、小学校時代の教師、川上茂との「恋愛」体験と彼の「変心」に悩んだ末、「遊戯的」「タイラント的(暴君)」と彼を批判する千代子がいます。
 こうした積み重ねがあった千代子だから同時代の学生に先んじて『婦人論』の内容に目を開かれ、そこから女性の自立の重要性と、社会的に作られてきた性差へのほとばしるような批判を「催眠術」という言葉で表現できたのです。

 第二に、千代子のこの思想的観点は、その後の生き方、活動の中での思考・行動・実践に活かされていくのを見ることができます。たとえば、①東京女子大3年の時、東大新人会の浅野晃から諏訪湖畔でプロポーズを受けた時、その返事は自分の判断で行っていること。②その後の結婚生活は半年間という短いものでしたが、夫婦別姓を貫いた。③当時の共産党中央事務局長の水野成夫から入党の推薦を受け「光栄です」と即決した時も夫との相談はしませんでした。④夫婦にあっても、相互に独立した人格の尊重、独自の活動分野の認め合いと相互協力、などを貫いていきます。

 さらに決定的には、⑤1929年5月以降、同じ市谷刑務所に勾留中の入党推薦者・水野成夫の変節(ブルジョア民主主義革命の基本命題である絶対主義的天皇制の打倒の方針を捨て、共産党の解党を主張)、次いでそれに同調した夫浅野晃の変節、さらにその水野の「転向上申書」を違法にも平田勲思想検事が刑務所内の党員に読ませ、男子房の相当部分を転向に誘い込むという事態のなかで、女子房舎の団結の要として、強力に水野らの変節に反対を貫き通せたことの根底には、男性中心の主張をうのみにしない思考が支えていたと言えるのではないか。つまり、『婦人論』に拠って男女平等・同権という思想を確立していたからこそ、「男性中心の組織の意向」に縛られない―従属しない思想が、獄中闘争を支えていた、と言えるのです。
 こうした新しいタイプの女性たちが、科学的社会主義に導かれて、わが国の黎明期革命運動に登場してきたのです。千代子等はその第1号群の一人です。

 資料① 千代子が書いたエンピツ書きの手紙

1925 年12 月19 日付、東京女子大寄宿舎から旧友・五味よ志子さん宛ての手紙。5 枚のうちの2 枚分(エンピツ書き)。傍線は筆者。葛城誉子氏蔵

〔手紙の読み下し部分〕
 「……男の人はやはり羨ましい。『女の人は気の毒』といはれても仕方ありません。自分でも気の毒だと思ってます。いいかげんな良妻賢母に育てあげやうと 小学校からして一定の目的のわくにはめ込まれるので すからね。女は智的、生理的すべてに男子に劣る―― なんて、劣るようになったその原因はぬきにしてすぐ 結果ばかりいふ論理がございませうか。美しい催眠術 にながい間かけられてきたにすぎないのです。ヴェー ヴェルといふ人が実に痛快に『婦人論』の中に述べて おります。お読みになることをおすすめします。

 明日から授業なし、二十四日が休みといふことにな りました。今日午前の試験が終わりましたので、午後 から細井和喜蔵の『工場』を読み了りました。この人 のは『女工哀史』といふのもあって粗野な荒けずりな 原始的とも云ひたい気持ちの中の人間もピチピチと丈 夫で元気な丸々しい新鮮な感を与へてくれました。

 女の人が覚める時、深い深い眠りから、男子の催眠 術から、そして、まず自己の自己に対する催眠術から 覚める時、どんなにすばらしい新しい世の中が展かれ てくることでせう。世の先輩とか師とかさういふ人の 声には謙虚でつつしみぶかく耳を傾けませう。しかし ほんとうの先輩、師は、ありのままの心、この自己と 現実のありのままであるその事実にひそむことを忘れ ますまい。時代の力、私共の時代の力、それをどこ迄 もどこ迄も信じませう。……』

PDF(手紙) 

資料② アウグスト・ベーベル

社会主義鎮圧法時代のベーベル

1840、 2.22 生まれ
1866 第一インターナショナル会員
1868 第5回ドイツ労働者協会連合大会でベーベル作成の綱領・規約採択。初めての有罪判決「国家に危険な学説を広めたこと」
1869 3週間の監獄入り。獄中でマルクス『資本論』を読む。ドイツ初のマルクス主義政党・社会民主労働党創設に参加
1871 ドイツ帝国議会に最高位で当選。バリ・コミューンへの連帯挨拶
1873 マルクス、エンゲルスとの間に文通始まる
1878 ビスマルクの社会主義鎮圧法成立。プレッツェンゼ―監獄に収容。「婦人の現在と未来の地位について」を執筆
1979 『婦人論』(「婦人と社会主義」」非合法に刊行する。エンゲルスの「反デューリング論」を読みマルクス主義へ。ロンドンのマルクス、エンゲルス訪問、交流深まる
1883 マルクス死去。『婦人論』第2版(社会主義鎮圧法の施行下で)「過去・現在・未来の婦人」と改題)刊行。
1891 ベーベル書名をもとに戻す
1895 『婦人論』第25版。エンゲルス死去、ベーベルが「遺稿相続人」に
1909 『婦人論』第50版
1910 ドイツ帝国議会で軍備戦争政策反対の演説
1913 8.13 死去

(倉田稔著『ベーベルと婦人論』の略年譜から抄出)

Ⅱ 山懸候補への「卒業資金」表現の謬論を正す
   ―最後まで卒業への努力を続けた千代子

 

学費の拠出

 1928年1月、第1回男子普通選挙を戦う共産党員で労農党候補の山本懸蔵は、病気と何よりも選挙資金の未調達から出発できないでいました。 多喜二らの待つ北海道からは矢のような催促が届いていて、共産党から労農党本部に派遣されていた千代子の夫の浅野晃は苦慮していました。 そんな矢先に、千代子に郷里からの学費が届きました。

  浅野晃は、
  「…とっさに私は考えた。…〝その金を俺にくれないか…山懸にやるんだ。これだけあればすぐに出発させられる〟 彼女にとっては思いがけない衝撃だった。 …この金を私に渡すことは卒業を断念することを意味していた。千代子はさすがに泣いていた…涙を収めた彼女は…よくわかったから使って下さいとその金を渡した」と回想する (戦後、東栄蔵氏の聞き取りによる。『伊藤千代子の死』から)。
  このくだりを紹介する際に私は、不用意にも彼女の拠出したこの学費を「卒業資金」という表現を使ってしまいました。

  当時の選挙戦は大衆的なカンパ活動のもとに展開されました。 東京女子大の学生たちの間では、貯金や指輪、貴金属などを出し合っていました(『創設期における東京女子大の思想的動向』東京女子大女性学研究所編)
 しかし、浅野の行為は性急なものでした。千代子は共産党を含む共同戦線選挙での大義のために断腸の思いで決断し、決断した後はその行為を活かすために自らも労農党候補の勝利のために力を尽くしました。「学費」の拠出に後悔せず、涙をふるって起ちあがったのです。

多喜二と千代子

 この時、拓銀小樽支店に勤務していた多喜二は、1月30日、小樽駅頭に山懸候補を迎えました。送り手に千代子、そして受け手側に多喜二がいたのです。
 多喜二は、勤務が引けると労農党の選挙事務所に詰めて山本懸蔵の選挙応援に参加、2月中旬には羊蹄山のすそ野の雪原を踏み分けて応援演説を繰り広げました。そしてその模様を『東倶知安行』で書きます。その冒頭部分で全国からのカンパが紹介されていきます。一、参拾圓也 東京×××子から鶏卵〇個、切手〇枚まで続きます。

本当に「卒業資金」だったのか

 この時の千代子の拠出額はいくらだったのでしょうか。通常の月の学費を、千代子は後に予審検事に、毎月、養家の岩波家から四十円位の送金を受けていたと答えていますので、おおよそこの金額に近いものだったと推測されます(28年12月7日、「第2回尋問調書」)。
 ここで、東栄蔵氏が戦後、浅野晃から聞き取った冒頭の話の内容をもう一度見ますと、「学費の拠出、卒業断念」と同時形で語られているため、「学費=卒業資金」と思いこんでしまう危険性がありました。  

卒業の努力続ける千代子

 しかし、その学費の拠出は1月下旬で、2月分の月謝となり、3月卒業期の「卒業資金」ではありません。その証拠に千代子は、その後も一貫して郷里への期待に応えるため、せめても卒業だけはと努力をしていたのです。
 今回、提示する千代子の検挙直前の郷里、岩波家への手紙(資料③)(2月21日から27日までの間に発信と推定)をつぶさに見ますと、そこには、3月期の卒業日程が書かれ、なお、「いつもより十円位多くを三月一日位に着くように」と懇請しているのです。

資料③「伊藤千代子追悼録」から。千代子の検挙直前の郷里、岩波家への手紙
「…藤森氏や労農党の人の演説をきいてくださいましたでせうか。藤森氏は落ちてしまひましたが、これを機会に諏訪の地にも労農党とはどんなものか、私たちの運動はどんなものか、が広く知られたと思ひます。
 お聞きになってお祖父さまはどうお思ひになりましたか。全国で無産者政党から八人出ました。今月下旬の臨時議会でその人たちがどんなことをするか、みんな大変注目されてゐます。選挙はすみましたが、その後始末や方々からどんどん入党を申し込んでくる人が多く本部は今大多忙です。私も土曜、日曜は手伝いを命ぜられてしまひます。
 学校は三月の二日から九日まで卒業試験があって、そのあと各クラスの送別会や謝恩会、クラス会があるようですが卒業式は二十三日です。二十日までは試験後の授業がある予定ですが、もしクラスの人がみんな旅行に出かければ授業はなくなりますから十日ごろらには私は帰りたいと思っています。
 それで今度は謝恩会、同窓会、学校へ残しておく記念品だとかいろいろ費用がかかりますので後の方は切り詰める考えですが、そんなものではどうにも足りませんから、来月分は何時もより十円くらい多く送っていただきとうございます。そしてすみませんけれども、三月一日位につくやうに送っていただきたいのです。試験の始まる前までに頼むものは頼まなければなりませんからどうぞおねがひいたします。気候が変わり目でわるい風邪がはやりますからみなさま用心してくださいませ。」
保証人が「退学」届け出

 ところがここで重大問題が出来していました。当時、千代子は、「女子学連」の全国的組織化や学生社研の活動をスムーズに行うため、住所は大学内の寄宿舎に置きながら、浅野との結婚生活の場を新宿近くの高田の馬場付近に設けていました。
 そのために千代子の努力は水泡に帰してしまうのです。
 その間の事情を、東京女子大の安井てつ学長が遺した「重要書類綴」からみることが出来ます。
 安井学長は、28年5月28日付の文部省専門学務局長からの「共産党について起訴せられたる者の調査表作成回附依頼」への「回答」を行っています(同前「思想的動向」)。それを示します(カタカナはひらがなに変換)。

「001 同人は長野県○○高等女学校出身なる同級生にして人の妻となり社会科学研究に興味を有する者と(東京に於て)相往来せる由なるを以て茲に思想上の影響を受けたるにあらずやと推測せらる。但し当校在学中余りかかる種類の研究に興味を有せざるものの如く見えしが、同級生たりし003と交りを結ぶに至りて屡々欠席をなすに至り、初めて学校の注意を惹き警告したる所ありしが、病気の故をもって欠席を継続し、終に卒業試験をも受け得ざる旨を通知せるをもって、保証人と協議の上、退学者として認め、その手続きを取るに至れり」

 この「回答」にあたり安井学長は、001、002、003の該当調査対象者について「左傾主義、研究に入りし動機及びその経過に就いては本人に就て直接調査するにあらずば全く取調べの方法なきを遺憾とす」とのみ答え、該当の3人が、すでに卒業者あるいは中退者であり、それぞれ独立した社会人とみなして、管理下にないことを強調し、文部省の詰問に敢えて答えているのは、当時としては卓見であり、学長の毅然たる態度を見ることが出来ます。

 ここで001は、同校への右記調査依頼への回答の1号を意味するもので伊藤千代子。同じく002は渡辺(のち志賀)多恵子。003は福永(是枝)操と特定されています。この3人が1925年の東京女子大社会科学研究会の創設の中心メンバーでした。

卒業への道を断ったもの

 こうして浮かび上がってきたことは、千代子が最後まで卒業への努力をしていたことです。 しかし学校側が、千代子との連絡が取れないことを理由に保証人を呼び出し、退学届けを出させてしまうという事態が進行してしまいました。

  そして、普通選挙後、共産党との共同戦線を組んだ労農党の前進の中で確信をもった千代子は同年2月29日、日本共産党に「光栄です」と率先入党し、 党の中央事務局員として日夜を分かたぬ活動に入りました。そして、前夜から徹夜でガリ切りした文書をもって3月15日朝、「赤旗印刷所」を訪ね、そこで特高警察の追跡を受けて検挙され、 警察署拘置から市谷刑務所への勾留という治安維持法弾圧が千代子の卒業への努力を断ち切ってしまったのです。

Ⅲ 「弔意」の呼びかけ―新資料紹介

 重病のまゝ保釈されずに病死した千代子への弔意と香典を呼び掛ける新資料を紹介します。櫛田民蔵氏の執筆になる「呼びかけ」です。(資料④)

資料④ 1929(昭和4年)10月5日「呼びかけ文」(大原社研蔵)

Ⅳ 壮大なヒューマンドラマ、21年春クランクインへ

 ヒューマンドラマ「こころざしつつたふれし少女よ―伊藤千代子の生涯」(仮題)は、いよいよ2021年春からクランクインを予定しています。 いま、全国各地で「映画製作・上映運動資金づくり」へむけて実行委員会が作られ、大衆募金と共に「1口10万円上映権」への集約が進みつつあります。 あわせて伊藤千代子の生涯を知ってもらう「ミニ講演学習会」などが多彩に開催されつつあります。

 伊藤千代子の生涯の映画化は次のような大きな意義をもつものです。
①これまで、小林多喜二、山本宣治をはじめ男性中心の活動家群像の映像化の中にあって、 わが国の民主勢力と独立プロが戦前の黎明期社会変革運動の前面に躍り出た女性ヒューマニスト・伊藤千代子を初めて真正面から取り上げていく最初の挑戦となることです。

②この試みは、2020年代という黎明期の社会変革運動から100年を迎える記念すべき時に歩を合わせて進行することです。

③本稿で見てきたように、伊藤千代子が20歳の若さでベーベルの『婦人論』に学び、男性中心の戦前社会の中で、男女平等と女性の自立の思想を確立していく姿を描くことは、 ジェンダー平等の今日の運動をいっそう促進することに貢献するでしょう。

④戦前の支配構造を支えた背骨とも言うべき治安維持法とその尖兵としての特高警察の残虐な弾圧に抗して昂然と面おもてをあげてたたかい斃れた女性の生きざまは、 今日を生きる若者たちへの千代子からのメッセージであり、時代閉塞を打ち破る力となるものとなりましょう。

⑤私たちは、この映画の作成にあたって新しい運動を呼びかけています。それは、戦後の独立プロがうちたてた、 「民主勢力全体の力で製作資金を集め・作られた良質の映画をみんなの力で上映しよう」という二つの運動を統一して進めるという原点に立ち戻る運動を提起していることです。 この原点に立つ運動を全国に広げていただくことができれば、今後の国賠同盟と文化・国民運動のすそ野を大きく広げていくことに繋がりましょう。

 この運動の具体化に当り、1大規模の大衆募金の集約、2各地域・職域での募金を集約し、「1口10万円」にまで結実させ、上映権を持ち、募金して下さった方々に「上映会開催」で応えましょう。
(ふじた ひろと・同盟顧問、「映画製作を支援する会・事務局」 )

inserted by FC2 system