伊藤千代子―いま、新しき光の中へ
研究論考-2 長野 晃

土屋文明詠歌再考―伊藤千代子映画化に寄せて 長野 晃    

土屋文明(昭和35年頃)

 私が伊藤千代子について初めて知ったのは32年前、1988年に『土屋文明歌集』(岩波文庫)を読みその中にあった次に紹介する短歌六首です。
  歌人・土屋文明はこの短歌六首を作り「アララギ」の短歌誌に掲載した1935年当時、短歌結社「アララギ」の主宰者でありました。 短歌を作り始めていた私は土屋文明が百歳近いことや、インタビューで「作歌に骨を折ってきた」と語っていることに触発され歌集を読み通しました。 土屋文明が伊藤千代子を読んだ短歌は、「某日某学園にて」という題の次の六首です。その前半三首、

  かたらへば(まなこ)かがやく処女等(おとめら)らに思ひいづ
    諏訪女学校すわじょがくかうにありし(ころ)のこと

 この歌は、土屋文明が戦前、東京女子大で講演をしたときに生徒に話をし、かつて長野県の諏訪女学校で全国で一番若い教頭をしていた時のことを回想してうたっています。

  清き世をこひねがひつつ
   ひたすらなる処女等(おとめら)(なか)今日(けふ)はもの言ふ


  芝生(しばふ)あり林あり白き校舎あり
    清き世ねがふ少女(をとめ)あれこそ

 これは、眼を輝かせて聴き入る女子学生を前に、伊藤千代子とダブらせて詠いあげた歌でしょう。
 後半の三首の冒頭、

   まをとめのただ素直(すなお)にて行きにしを
    (とら)へられ(ごく)に死にき五年(いつとせ)がほどに

 最初この歌を読んだ時「まおとめ」とは誰だろう。また「ただ素直にて行きにしを囚へられ獄に死にき」とはどういうことか。 また「五年がほどに」というのはいつ頃のことか知りたいと思いました。

   こころざしつつたふれし少女(をとめ)
    新しき(ひかり)の中なかにおきて思はむ


   高き世をただめざす少女等(をとめら)らここに見れば
    伊藤千代子(いとうちよこ)がことぞ悲しき

 最後の二首を読んだ時、ああこれは、戦前、世の中をよくしようと考え、行動した伊藤千代子という教え子がおり、まじめに生きて、獄にとらえられ、 五年前に獄死したことを嘆き悲しみ名前まで読み込んで短歌にした絶唱だったと気づきました。

  土屋文明がこの歌を作った昭和10(1935)年頃の情勢は、1925年治安維持法公布。28年3月15日の共産党員や支持者にたいする大弾圧があり、 この日、伊藤千代子は共産党中央事務局に所属しており、記事の原稿などを党の印刷所に届けたところを特高に逮捕され投獄されました。

 伊藤千代子は、1905(明治32)年長野県の諏訪に生まれ、文明氏が日本一若い教頭として諏訪高女で教師をしていた頃の教え子でした。 伊藤千代子は、同級の平林タイ子と並ぶ優秀な生徒でした。幼少時、両親と死・離別した千代子は祖父母に育てられましたが、向学の精神が強く、 東京に出て東京女子大に入るべく、文明氏の妻で英語の教師をしていた土屋テル子さんに個人的に英語を教わっていました。
  このように伊藤千代子と文明夫妻には諏訪時代の強いつながりがありました。治安維持法が猛威を振るっていた時代でしたが、土屋文明は治安維持法に引っかけられてもおかしくない歌を作り、 「アララギ」の雑誌にあえて載せたものであることを知り、土屋文明氏の人間性が強く伝わってきます。

  その後、諏訪高女を卒業した伊藤千代子は、小学校の代用教員になりました。このころ、小学校時代の教師であった人道主義や自然主義に心酔していた教師との恋愛関係を断ち切り、 さらに広い世界を知るべく英語を熱心に勉強し、土屋文明夫妻の援助もあり念願の東京女子大に入学しました。そして、それまでの人道主義などの考えから、 日本が侵略戦争へ向かう政治と社会の矛盾に強い関心を持ち、科学的社会主義の学習サークルを作ったり(学生の社会主義研究会の全国組織など)、 出身地である諏訪の紡績工場の女工さんたちのストライキ闘争を支援する中で日本共産党に入党しました。
  ちなみに、当時の歴史的背景は、1928(昭和3)年3月15日、治安維持法による全国一斉の大弾圧があり、先に述べたようにこの時、伊藤千代子も特高に逮捕、拷問をうけました。 あくる29年3月5日、国会で治安維持法反対の演説を準備していた山本宣治が右翼に刺殺されました。伊藤千代子が獄死したのち、 33年には小林多喜二が特高に捕まり即日拷問・虐殺されたような時代でした。

  山宣が右翼に殺された同じ年、伊藤千代子は、獄中で同志である夫の裏切りを知り、一時は獄中で拘禁性の精神病に係り府立松沢病院に特高の監視つきで入院していました。 しかし、伊藤千代子は夫の裏切りに苦悩しましたが、裏切りを断固として拒否し屈することなく反戦平和、人民解放の道を信じ、病状がよくなりつつありました。 しかし、まともな治療を受けることなく、9月24日、「先生に会いたい。アララギの人だ」などと言い、だれ一人看取る人もなく「獄死」をしました。24歳でした。 この時の診療記録が松沢病院に残されており、当時、治安維持法で投獄された多くの活動家が弾圧性拘禁性精神病にかかり、釈放されると治るという事が明らかになっています。

  当時同じ獄中にいて伊藤千代子を知っていた東京女子大の後輩の塩沢富美子さん、この方は経済学者・野呂栄太郎夫人でのちに薬学研究者になりましたが、私は塩沢さんに30年程前、 「短詩形文学」という短歌団体でお会いしたことがあり、伊藤千代子のことを印象深く聞き覚えておりました。

 日本共産党は1992年、戦前、党と人民解放のために節を曲げずたたかい獄死した4名の女性をとくに名を上げて顕彰されています。伊藤千代子もその一人です。

     ◇     ◇     

土屋文明直筆。伊藤千代子の後輩の塩沢富美子さんに贈られた (日本共産党中央委員会党史資料室蔵)

 今回、映画になると聞き、あらためて、藤田廣登著『時代の証言者 伊藤千代子』を読みました。 とくにこの本では、伊藤千代子が親友に書き続けていた手紙が見つかり彼女の本音の思い、また獄中での毅然とした態度などの資料が発見され、伊藤千代子の死が一時期、 「狂い死に」であるかのように伝えられていたことが事実と異なることをはっきりと知りました。

  土屋文明氏が暗黒の時代に伊藤千代子が獄死した5年の後に「まおとめのただただ素直にて行きにしを囚へられ獄に死にき五年がほどに」などの短歌を作ったことからもわかるように、 若い青年が日本の将来を憂いまっすぐな精神をもって活躍をしたことがあったことを今の多くの人たちが知り、現在のきわめて危うい時代に立ち向かうこころの支えになるような映画ができ、 多くの特に若い人たちの間にも広く普及することを願ってやみません。

 暗い世の中で、社会の真実を知りその変革にひるまず立ち向かい、明るく生き抜いた伊藤千代子像を、 可能な限り明るく描いていただけたらと思い、こころある短歌の仲間といっしょに製作にぜひ協力したいと思っております。

  そこで、この映画を現代に上映する意義、大切さを改めて考えることが大事ではないかと思っています。
  一つは、伊藤千代子のように絶対主義的天皇制権力による非道な弾圧を受けながら、侵略戦争反対、自由と民主主義にたつ政府の樹立、人権をまもる国を目指し、 行動した先人たちが日本の国のいしずえになって活動したことが、戦後、平和憲法の成立に直結しており、私たちはこのことに大いに誇りを持ち、 そのことを広く伝えなければならいということです。このことは、戦前回帰へ向けウソや捏ねつぞう造でひた走る安倍政権の暴走への痛打になりうると考えます。
  いわば、日本国民が侵略主義と民主主義否定に一辺倒ではない誇るべき人々がいた歴史を持っていることを実例で示すことになるでしょう。

 もう一つは、最近、ジェンダー平等が国際的にも国内政治においても大きな課題になっています。とりわけ日本はジェンダー平等の国際的ランクが121位、その中でも、 男女の賃金格差や議員数でもっと低い位置にあるジェンダー不平等国であることが大きな社会的、政治的問題になっています。 こうしたなか、最近、公表された伊藤千代子が親しくしていた友人に送った手紙に次のような文面があることを藤田廣登氏からの資料で知ることができました。

  伊藤千代子は、小学校時代からの恋人について、青年時自ら別れた時のことを、「彼はタイラントであった」、つまり暴君であったと明かしています。 そして東京女子大一年生の時、ドイツの革命家ベーベルの「婦人論」を読み、親友に次のように書き送っています。
 「いいかげんな良妻賢母に育て上げようと小学校からして一定の目的の下にはめ込まれるのですからね」
 「女は(略)美しい催眠術に長い間かけられて来たに過ぎないのです。べーベルという人が実に痛快に『婦人論』の中に述べてあります。お読みなさることをお勧めします。」
 「女の人が覚める時、深い深い眠りから、男子の催眠術から、そしてまず自己に対する催眠術から覚める時、どんなにすばらしい新しい世の中が展かれてくることでしょう。」
 当時、ジェンダーという言葉さえ知らなかった時代に、男尊女卑の濃厚なこの国で、女性の目覚めがどんな素晴らしい世の中を開くことができるかと語った当時としては稀有な先覚者といえるでしょう。

 ちなみに、諏訪高女の教師時代の土屋文明の教育方針は「教育に男女の差があってはならない、人間教育の場である」と伝えられている。 すなわち「諏訪高女の花嫁学校的存在」からの脱出であり、伊藤千代子はその教育の最も忠実な薫陶を受け継いだ女性といえるのである。  以上のように考えてくると、現在の日本の政治のきな臭いにおいを吹き払い、かつて土屋文明が詠んだ様な歌が再び詠われる時代がくることのないよう憲法九条を護らねばとしみじみ思います。

 そして、いまこそ、これからの日本を背負ってたつ青年たちが、自分たちの先輩の中にこんなすばらしい女性がいたことを知って立ちあがることが大切であり、 この映画の現代的意義もそこにあると思っています。   (ながの あきら・新日本歌人協会全国幹事)

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